池田は大学を休んでいた。
あれ以来、度々幻覚に悩まされるようになっていた。
外を歩いている人達がいる。
その中に見えているだけで存在していない人がいるとしたらどうだろうか。
触ろうとしても触れない。
しかし、そこに見えている。
あたかも、自分の周囲がスクリーンに映し出されているかのように見えているだけの世界。
それは夢の世界。
夢現の区別がなければ、人としての理性もまたなくなる。
夢の世界に迷いこんだ池田もまた同じだった。
池田は知り合いの後ろ姿を発見して、声をかけながら肩に手をかけた。
ここまでは、良くある事だ。
すると、池田の手は知り合いの体をすり抜ける。
振り向いた知人の顔はなかった。
これは池田の見た幻覚の1つだ。
この幻覚がもたらす影響は、後ろから知人に声をかけられないというだけではない。
人は1度目なら呆然として何もしないだろう。
だが、2度目なら対策を取る。
対策に効果が無い事を知った3度目なら、さらにエスカレートするだろう。
その対策に何も意味はないのだが、何かをやった事により人は安心感を得たいと思うものだ。
それを自己満足という。
池田は当初、お守りや十字架などの一般的に霊に有効とされる物を用意した。
しかし、効果が無い。
顔の無い霊は他人になりすますだけで池田に何かしてくる様子はないのだが、何かされてからでは遅いのだ。
池田はそう考える。
最後に手にしたのは銀のナイフだ。
形状はペーパーナイフのようだが、十分に殺傷能力はある。
武器を手にすれば、使ってみたいと思うのが人の心だ。
武器を便利な物と言い換えても良い。
よく切れる包丁の展示販売で何でも綺麗に切っていくデモンストレーションを見て、自分もやってみたいと思わないだろうか。
これは、特に「みんな」という言葉を良く使う人や流行に敏感な人はそう思うだろう。
日本人の大半といっても良い。
自分で考える力を養うのではなく、ただ反復させて覚えこませるだけの教育を受けて来た日本人だ。
彼らは形だけにこだわり、その本質を見ようとは誰もしない。
池田は安心出来るからナイフを持った。
だが、自分にとっての安心は他人にとっての脅威でしかない。
それが分かっていても、池田には選択肢が無いのだ。
身を守るためには。
池田はナイフを手に町に出る。
そこいるのは敵か味方か。
追い詰められた人間には中間が無いのだ。
それは、悪人と善人とに分けたがる人、白黒はっきりつけなきゃ気がすまない人。
彼らは自分で自分を追い込んでいる。
こうでなければならない。
他人はこうしている。
これほど、疲れる考え方はないというのに。
池田は思い込んでいた。
―次にあいつが出てきたら刺してやる。実際に銀のナイフが効くかどうか試さないと。
まるで、便利な物や核兵器を手に入れたら、使ってみたいと思う人達のようだ。
ナイフなど持たなければいいものを、池田はナイフを持ってしまったがために感情の虜になった。
しばらく、部屋に篭っていたのだが、池田は外へ出る。
ミツケタ。
前を歩いているのは近所の人だ。
池田はナイフを右手に持ち、左手で乱暴に肩を掴む。
手がすり抜けるのが合図だ。
チガウ。
池田の手は体に当たった。
近所の人はナイフを持った池田に恐怖で怯えている。
ドコダ。…モット、ヒトノオオイトコロヘイコウ。
池田はナイフを手に町を彷徨う。
彼は自分が何をしているのか分かっていない。
彼には悪霊を倒すという彼なりの正義があった。
決して、人を殺そうと思っているわけではない。
だが、周囲から見れば、ただの殺人鬼に見えるだろう。
池田に責任がないわけではないが、日本の現状を分析すると、こういったタイプを数多く排出するようになっているのだから、彼がこうなるのも不思議ではない。
池田はハンターだった。
そう、彼は悪霊と戦うエクソシストなのだ。
多少の犠牲はやむを得ない。
カクレテイルノナラ、ゼンインダ。イツカハホンメイニアウダロウ。
池田は探しても悪霊が一向に出てこないので、自暴自棄になった。
その辺の通行人に後ろから襲い掛かる。
ハズレダ。
路面に血溜りが広がる。
だが、池田が振りかえる事は無い。
次々に、襲いかかっていく。
…警察が現場に到着した頃には、凄惨な状況になっていた。
彼らや警備員はいつも事が終わってから到着する。
そうして、終わった後に犯行、まあ反抗かもしれないが、その動機を追及してファイリングするだけだ。
警察官が良く飲酒運転で捕まるというのも良く分かる。
自分達の責任ではないのに、警察は何をしていたのかと被害者から良く言われる。
だが、それはまともな警察官なら誰でもそう思っているのだ。
自分は一体何をしているのだろうと。
日本の警察というよりは法律を知っている全ての日本人は不満があるはずだ。
しかし、法律は変えられない。
実におかしな事だ。
今回もまた、何も出来ずに事が終わった後で辿り着いた。
巡査長は警察生活数十年でも、こんな事件を担当した事はなかった。
一報を受けた時には手柄を立てる良い機会だとくらいしか思わなかった。
だが、来て見るとどうだ。
そこはスプラッター映画さながらに血が辺りを染めている。
流れてくる血が禍々しく感じられ、靴に血がつかないように無意識に避ける。
あれほど、何度も経験して来た現場だ。
手順はわかっている。
そのために警察学校で訓練をしたのだ。
だが、練習は全く役に立たなかった。
警察官でも特に実戦を経験していない警察官は群れている時は強い。
だが、状況が複雑になり、個人で判断する状況に置かれた時、その脆さが露呈する。
そこまで想定した訓練はなかなか出来るものではない。
何をすれば良いかは分かるのだが、優先順位がつけられないのだ。
犯罪の現場は同時に対処する事項が多すぎる。
加えて、普段味わった事のない恐怖だ。
殴られた事のある者は痛みを知っている。
しかし、無いものは想像するしかない。
そして、それは無限に膨らみ、やがて棘となって身に降りかかる。
えたいの知れない恐怖の中、巡査長は自分を奮い立たせる。
―俺はあの畳の上で何度も歴戦の猛者達と戦ってきたのだ。彼らに比べれば、雑魚のはずだ。
道場での稽古が巡査長の心の支えになっていた。
しかし、稽古は稽古だ。
事故はともかく、意図的に殺される事はあまり無い。
それは考えないようにしていた。
血の目印を辿っていくと、男がいた。
返り血に染まり、男はてんとう虫のようになっている。むしろ、害虫だ。
巡査長は拳銃のカバーを外し、手をかけたまま、ゆっくりと息を吐いた。