池田はなかなか眠れないでいた。
今日一日が悪夢の出来事であったかのように思える。
池田は青年に憑かれていた。
まるで頭の中に青年が住み込んでいるかのように、何をしていても青年の事が頭をよぎってしまう。
顔の無い青年。
それはどこまでも想像を掻き立てる。
そして、竹下に負い目を感じている池田を追い込む。
現実は映画やゲームなどと違い、終わりが無い。
一度知ってしまった事は知らない事に出来ない。
つまり、池田は自分が死ぬまで竹下の事を抱え込まなければならないという事だ。
何か悪い事がある度に、知らず知らず竹下と結びつける。
あれが何かは何度考えても、池田には分からなかった。
いや、分かるはずが無い。
分かりようが無いのだ。
ただ、いるという事だけは間違いない。
見えないという事は普通の人には想像出来ないだろう。
それは1つの人類の夢として取り上げられる。
ただ、大抵は透明になりたいと思う事はあっても、相手がどう思うのかは考える事はしない。
ステルスはレーダーで位置を発見される事なく爆撃出来る。
使う側にとっては良いかもしれないが、使われる側にとってはたまらない。
池田にとっても同じ事だ。
青年は姿を消せるから良いかもしれないが、見えない池田はいるかいないのかが分からず、ちょっとした物音にも気を使わなければならない。
悪い事に娯楽作品というのは徐々にエスカレートするシナリオの物が多い。
それに影響を受けている現代人もまた多い。
池田もその一人だ。
まだ青年を見ただけの池田は次に一体何が起きるのか、その事に悩まされて眠れないでいるのだ。
朝、兵藤が目を覚ますと、メールの着信が入っていた。
小林からだ。
時刻は昨夜の8時13分になっている。
兵藤はおきがけで寝ぼけているせいか、一瞬状況が飲み込めない。
声に出して読み上げた。
「山本、お持ち帰り成功。なまものですので早めにおいしくいただきます。…ってなんだ、こりゃ」
携帯の画面には、温かみの全く無い文字が並んでいる。
兵藤は愕然とした。
―山本がお持ち帰りされただって。…あの小林にか…ないない…それはない…いや、あの日の山本はどこか様子がおかしかった…ということは…まさか…スマイル…0円…お持ち帰りで。何を考えているんだ、俺は。わけわかめだ。
小林が言っているだけで、実際の所は山本がテイクアウトされたのかどうかは分からないのだが、人は一人でいると考えが悪い方向に向かう。
兵藤の頭の中では確定していた。
あの日、行かなかった事が悔やまれる。
―もう、あきらめよう。小林と穴兄弟になるのはごめんだ。
山本と小林が二人でいる所を想像した兵藤は気持ち悪くなった。
両親が一発やって自分が出来た事を想像するかのように、知り合いの絡みは幻想を打ち砕く。
兵藤の中で山本に対する気持ちが急に薄れたかのように思える瞬間だった。
―気分を変えるために、イメージチェンジでもしようかな。
兵藤は鏡に自分を写した。
―俺も髪を染めようかな。
兵藤の通う大学生達の多くは髪を染めている。
―でも、年取ってから禿げるっていうからなあ。キューティクルは大事にしないとな。…染めるというより、スプレーで部分的に色をつけようかな。
兵藤は髪の一部を手でつまんで想像してみた。
が、自分には向いていないような気がする。
―…イメージチェンジって難しいな。女なら髪を切るだけなのだが。うーん、チェンジか…チェンジ…イエス、ウィ―キャン…アメリカ…サングラスか。でも、サングラスは日本人がかけても下品に見えるだけだからな。他に、何かないか。
兵藤は前に田中がホームレスにもらった眼鏡をかけて知的に見えた事を思い出した。
眼鏡を取ってきて、鏡の前でかけてみる。
―俺って、案外、眼鏡が似合うのかもしれない。
兵藤はそんな事を思う。
ほとんどの男の方は誰でも自画自賛するものだ。
いわくつきの眼鏡に少し抵抗はあったのだが、兵藤は佐藤の言う事など信じちゃいない。
今日から眼鏡をかける事にした。
兵藤は小林のメールがあってから、山さんとは距離を置いていた。
たまに大学で山本達の姿を見かける事はあるのだが、隠れるように体を物陰に置いてしまう。
逃げるいわれはないのに、気まずい空気を感じるのだ。
今もまた、佐藤と古森が一緒に歩いているのを見て、反射的に学内にあるカフェテラス風の施設、その柱の裏に隠れていた。
兵藤の背中に何かが押し付けられる。
兵藤の体が跳ね、背筋が伸びる。
「手を挙げなさい。逮捕するわよ」
聞こえてきたのは、懐かしい声だった。
山本だ。
そこまで時間が経っているというわけでもないのだが、兵藤は昔の戦友を見るような眼差しを山本に向ける。
山本は変わらない。
いや、少し魅力的になったように思える。
兵藤はどんな顔をして会えば良いか分からずに無意識的に避けていたのだが、山本を見て自然に笑顔になっていた。
兵藤の失恋のショックは時間が経つ程に大きくなっていき、一時期はメス豚、公衆便所などありとあらゆる言葉を用い、山本を愚弄していたのだが、会った時には不思議な事に全く思わなかった。
「…久しぶり」
兵藤は笑う。
「ええ、久しぶりね」
山本も笑う。
なんだか、付き合ってもいないのに昔のカップルが出会ったかのような絵図が出来上がっている。
「…」
「…」
そこで、会話は止まってしまった。
話したい事はたくさんあるのだが、言葉が出てこない。
両者共ににらみ合いを続ける格闘家のように間合いを計っている。
「兵藤君、眼鏡にしたのね」
「ああ」
「似合うわ」
「そうか」
「その眼鏡、ホームレスの人にもらった眼鏡だよね」
「そうだ」
何を言っても歯切れのいい兵藤の受け答えに聞く身の山本は困った。
話を切り上げにかかる。
「…兵藤君はもう部室には来ないのかしら」
「…分からない」
「…そっか。人の噂も75日。兵藤君の話題も今では全くないからね」
大学では嫌いな女子の指のサイズを聞いて、誕生日にメリケンサックを贈る事が流行しており、その反応の噂で持ちきりだった。
欧州で決闘する相手に手袋を送る事をヒントとして誰かが考案したらしい。
「…でも、良かったらまた来てね」
「ああ、分かった」
「じゃあ、私。行くから」
「…」
兵藤は山本に聞きたい事があったのだが、引き止める事が出来ずにそのまま見送った。