兵藤の期待が簡単に裏切られた。
「そうね。行こうかな」
その言葉が信じられないように兵藤は山本を見る。
「兵藤君も来る」
山本が聞いてくる。
「行かない」
兵藤は自分が誘った時は拒否したくせに、小林の誘いには簡単に応じた山本が許せなかった。
「そう…か」
山本は悲しそうに目を伏せた。
―…どうして、そんな顔するんだよ。
悪いのは山本のはずなのに、兵藤は自分が悪いような気になる。
全員が部屋を立ち去った後、兵藤は一人になった。
もともと狭い部屋なのに、広くなったように感じる。
いつものように、ベッドに横になった。
―俺も行けば良かったのかな。
山本の悲しそうな顔が頭から離れない。
―どうしていつも、俺はこうなのだ。
兵藤は悔恨の感情に溢れ、ベッドを裏拳で数回殴った。
―くそ、くそ。山本が小林の毒牙にかかるかもしれないのに。俺はこんな所で何をやっているんだ。
何度も裏拳でベッドを殴る。
インターホンが鳴った。
兵藤は起きる。
―今日は来客が多い日だな。一体、今度は何だ。
「はい。今、行きます」
兵藤がドアを開けると色の青白い男が立っていた。
年の頃、30前後だろうか。
髪はぼさぼさで手入れされておらず、服装も皺がよっている。
明らかに、インドア派だ。
兵藤の顔を見るなり、男は堰を切ったかのように話し始めた。
「ここのアパートに住んでいる者です」
「そうですか。こんにちは」
「あの、やかましいのですが。昼頃からドンドン、ドンドン。あまりにうるさいから注意しに来ました」
男はフランクに刺のある言葉を叩きつける
―げげ。やっぱり、来たよ。あの顧問のせいだ。
兵藤は自分がベッドを叩いた事は忘れ、池田に怒りを覚える。
「すいません。気をつけます」
兵藤はなんで自分が謝らないといけないのか分からなかったのだが、神経質な男は何をするか分からない。
自分が留守の間に火でもつけられたら大変なので、素直に謝った。
もちろん、実際にそんな事はまずない。
持ち家ならともかく貸しアパートであれば、神経質な男は自分から出て行くだろう。
しかし、兵藤はメディアのような不安を煽る人達に悪影響を受けていた。
知らない人に対して過剰に反応する。
「全く、こっちは資格の試験に受からなくて、ただでさえ、いらいら、いらいらしているんだから。次、やったら大家さんに連絡するよ」
男は大声で喚き散らす。
―うわ。この人、蛇のようにしつこい、嫌な隣人だな。それに、あんたの方がうるさいよ。
この男もまた、現代社会のゆがみをあらわす。
資格の勉強に人生の大半を注ぎ、知識は詰め込まれるのだが、人格が形成されていない。
まさに、日本のエリートもどき。
自分の器を知る事無く、勝ち組と自分で自分を呼ぶお馬鹿な人達と同じような性格だ。
こういう人達とは出来る限り、関わらない方が身のためだ。
物質的な豊かさは得られても、精神的な豊かさは決して、得られない。
君子危うきに近寄らずだ。
まあ、彼らに言わせれば、自分達は愚かではないと言うだろう。
実際は勝ち組ではなく、家畜身なのだ。
自らの財産を築くため、捨石となる人材を勝ち組のような魅力的な言葉で家畜のように巧みに操り、尖兵と化しているのだと。
そうすれば、嫌な仕事は人に任せて自分は楽に金を手に入れられる。
これこそが、経済学の極意、不労所得なのだと。
現代の法律に違反しない奴隷制度を作った俺達は天才だ。
その力は不況の時にこそ、最も発揮される。
失業率が高いのは求職者の数が多いという事でもある。
離職者より求職者が多いのなら、常に会社に奴隷を貯めていられる。
不況が長引けば、俺達は安泰だ。
生きるために、人を利用して何が悪い。
物質的な豊かさがなければ精神的な豊かさも得られない。
これが、彼らの一分だ。
どちらが正しいかは自分が死ぬ時にどう思うかだ。その人次第といっても良い。
ここで誤解されないように注釈。
苦情を伝える事は正しい。
だが、伝え方に品格がないということだ。
私情を挟む事なく、公共性を前面に押し出すのが正解だ。
「はい、申し訳ありません」
文句を言った事で気が晴れたのか、男は来た時よりも明るい表情で帰っていった。
―やれやれ。飛んだとばっちりだな。しかし、来るならもっと早く来いよ。そしたら、当事者がいたのに。
兵藤は山本の事はどこへやら、苦情の件について考えていた。
小林と山本は2人で町を歩いていた。
山本は地味な服装ではあるが、顔立ちは華やかだ。
そのため、ダイヤの原石のようにどこまでも可能性を感じさせる。
町行く人が振り向くのも無理はない。
一方、小林は喜んでいたのかと思えば、そうでもない。
今までヒットした事の無いタイプだけに扱いに困っていた。
―…兵藤も来れば良かったのに。俺、ノリの悪い娘は苦手なのだよな。
小林はおどけているものの、内心では大人っぽい女性の対応に慣れておらず、会話がなかなか弾まない。
―酒の力を借りるべきか。
小林はそんな事を考える。
しかし、酒を飲んだ所で共通の話題が無ければつまらない事には変わりがない。
「ねえねえ、沙耶ちゃん。沙耶ちゃんって何が好きなの」
小林は自分の得意分野の中に山本との共通点がないか手探りしている。
「私はブランド物のバッグとかお財布とか好きかも」
山本が答える。
もちろん、嘘だ。
山本の格好を見れば分かる通り、山本は何を着てもいい女だ。
だから、ブランドなどにこだわる必要も無い。
「そっか…」
学生で金の無い小林は女の嘘を見抜けず、うなだれる。
山本の中に小林に対する興味はない。
はっきりと言わないのは、山本の優しさだった。
小林の誘いに乗ったのは、実は兵藤に相談したい事があったからであり、悩みをサークルの部外者の誰かに聞いて欲しかっただけだ。
しかし、小林は山本の悩みと関係ない事ばかり言ってくる。
おまけに馴れ馴れしい。
―この人とは恋人にはナレナイ。
山本はそう思っていた。