「あなた方も素振りしてみませんか」
いまだに後ろめたい池田は小林に木刀を渡して素振りを勧めた。
「はい、分かりました」
小林は池田に逆らわない方が良いと思ったのか、素直に木刀を振り上げる。
「お、筋がいいですね。小林君」
それを聞いて、小林が調子に乗った。
素振りのスピードをあげていく。
数回、繰り返した所で天井に木刀の先が当たった。
―人の家でやめてくれよ。敷金が返って来ないだろ。それに、一人の時に、隣の人が怒鳴り込んで来たらどうするのだよ。
兵藤は迷惑に思ってはいたのだが、池田に対しての恐怖心は抜けきっておらず、心の中でぼやくしか能が無かった。
池田は不穏な空気を感じていた。
さっきの顔の無い青年は一体何だったのだろう。
池田は恐怖を押し隠すかのように明るく振舞い、学生達と絡んでいたのだが、心の内にある疑念は晴れるどころか段々と大きくなっていく。
しかし、考えた所で答えが出るはずもない。
そもそも、あの青年の存在自体がナンセンスだ。
青年がいた場所を見ると、池田のつけた傷が残っていた。
池田はその傷を見ただけで風邪の時のように首筋に冷気を感じる。
反射的に首を縮めて腕組みをした。
「先生、顔色が悪いようですけど大丈夫ですか」
山本が恐る恐る池田に声をかける。
「顔色が悪い。…すいません。鏡はありますか」
池田は何かが分かるという訳でもないのだが、自分の顔を触る。
兵藤が鼻毛を抜く時の手鏡を持ってきた。
―これが…私なのか。
鏡の中の池田は寒空の下で待ちぼうけをした時のように青白く、目は落ち窪み、唇も乾燥している。
まるで、何かにとり憑かれたかのようだ。
池田の頭に竹下のはっきりしない姿が浮かび、おもわず顔を覆った。
「…先生。…大丈夫ですか」
山本の呼びかけに池田は重い頭をあげる。
「…ああ。…大丈夫ですよ」
池田は力なく、山本に微笑んだ。
―この胸の内の苦しみを分かってもらえたらどんなに楽でしょうか。
池田は心で青年と竹下が無関係ではない事を感じていた。
後ろめたい人間は嘘をつき人の追及からは逃れられても自分からは逃げられないように、その行動は間違いなく自分自身を窮地へと陥れる結果になる。
池田もその例外ではなかった。
押し隠した罪の霧が心の扉から少しずつ漏れ出し、池田の精神に影響を与え、それが体にも影響している。
だが、当事者の池田にそんな事が分かる由も無い。
誰にも相談する事も出来ず、不安に苛まれるだけだ。
「…今日はもう終わりですから、この辺で一足先に帰られた方が良いのではないでしょうか」
山本が池田を心配している。
「そうですね。では、私はお先にお暇する事にしましょうか」
池田は一人になりたくなかったのだが、学生達の様子を見てそう判断した。
軽く会釈して兵藤の部屋を後にする。
「…ふう。行ったか」
池田が部屋を出て行くと、借りてきた猫の様におとなしかった小林の態度がいつものように大きくなる。
「まじ、焦ったよな」
兵藤も緊張が解けた。
「素振りしてみませんかだって。今時だよな」
小林は素直に素振りしていたにも関わらず、官僚のような事を言う。
「あの木刀事件は本当に手がすべっただけなのかな」
佐藤はなんにでも事件をつける。
「確かに、あれは気になるわ」
山本は顧問との今後の付き合いにおいて、軽視する事の出来ない事件に頭を悩ませていた。
「誰も最初から見ていなかったからな。本当の事は分かるまい」
亀井が薄く目を瞑っている。
古森はもじもじしていた。
「ところで…」 「ところで…」
兵藤と山本の話が被った。
「どうぞ。お先に」
「大した事じゃないから、山本からでいいよ」
「そう。悪いわね。じゃあ、先生は先に帰ったけど、これからどうしようか。もし、古森さんがいけるならもう一度霊視してもらいたいのだけど」
局部が乾燥する事を気にしていた古森は解散の事ばかりが頭にあったので驚愕した。
「…いえ…今日は無理そうです」
だが、山本は許さない。
「やってみないと分からないでしょ。やる前からあきらめてばかりいたら、あきらめる事が癖になったどうしようもない大人になるわよ」
山本は部長らしく、熱く語っていた。
困った古森は辺りを見回し、自分に同意してくれそうな人を探す。
いつも古森を観察している亀井は古森の様子がおかしい事に気がついていた。
だが、それが何かまでは分からない。
佐藤が躊躇いがちに口を挟む。
「僕はそろそろ帰ろうかと思います」
古森にとっては渡りに船だ。
便乗する。
「…私も用事がありますので帰ります」
―私の気持ちを分かってくれるのは佐藤君だけかも。
古森は知ってか知らずか、自分の窮地を救ってくれた丁寧な佐藤に少し心惹かれた。
「そういう事か。それじゃあ仕方ないわね。今日は解散にしましょうか」
―古森が帰るなら、今日は駄目そうだな。
兵藤は山本を今回も誘うかどうか迷ったが、誘わない事にした。
「沙耶ちゃん。ねえねえ。これからどっか行かない。行きつけの良い店があるんだよ」
小林が軽いノリで山本に声をかけている。
―阿呆が。断られてへこむがいいさ。