池田は自分に言い聞かせている。
こういう時こそ冷静にならなければ。
今のところ、青年が動く事はなさそうだ。
まずは現状を把握しよう。
池田は自分の心臓が激しく鼓動する中で、その場にへたれこみたい衝動を理性で抑えていた。
池田が研究者であった事が幸いしたのだろう。
学会で発表をした後の質問タイムで、自分に批判的な学者が手を挙げている時に感じた体の状態に似ている。
幾度となく窮地に立たされながらも、これまでなんとかなってきた。
今度もまたいけるはずだ。
池田は勇気を奮い立たせる。
手に持った眼鏡に目を向ける。
まずは、この眼鏡が関係していないか検証を行う。
池田は裸眼とレンズ越しに代わる代わる青年を見る。
次に同じ手順で青年以外を見る。
両者の間に相違点は無さそうだ。
よし、眼鏡は関係ない。
一歩前進だ。
次に、この青年が果たして人間なのかどうかだ。
そして、私以外にも見えるのかどうかだが、学生達に聞くべきだろうか。
池田は学生達の様子を見る。
学生達は池田に背を向けているため、 声をあげなければ気づいてもらえそうにない。
いや、待てよ。
先に人間かどうか確かめる必要があるな。
余計な事を言っては、私と竹下君との関連性が暴露してしまう恐れがある。
だが、どうやって。
池田は部屋を見回す。
壁に立てかけてある木刀に目がいった。
木刀か。
使えるか。
しかし、人間だったらいきなり木刀で突いたら怒るだろう。
何か小さい物を投げて、背中に当たってそのまま落ちれば実体があるという事にならないだろうか。
池田は小さい物を探すが見当たらない。
ここが私の家ならば、クリップなり輪ゴムなりあったものを。
池田は足踏みしていた。
実際は関わり合いになりたくないのだ。
その深層心理を反映してか何もしない方向へと持っていくよう、池田の思考は操られていた。
その実、池田には分かっていた。
この青年が人間ではないということが。
しかし、それを認めたくないがための実験だった。
結果が完全に分かっているのに実験するほど不毛な事はない。
まあ、それを言うと学者達は反論するのだが。
この世に完全なものなどない。
そこに研究の面白さ、ロマンがあるのだと。
池田が青年を発見してからここまでの間、わずか一分足らずといった所なのだが、最早、池田には自分から何かする気力も失われつつあった。
青年の後ろ姿を横目で見ながら、学生達が振り向いてくれるのを待っているだけだった。
振り向いてくれるなよ。
池田はそんな事を思ってしまった。
すると、その考えに呼応したかのように青年がゆっくりと動きを見せる。
池田は素早く木刀の位置を確認する。
用心のためだ。
青年の首がくるりと回った。
顔が無い。
顔はのっぺらぼうのようにパーツだけが無いというよりは、薄暗い山にある小屋の中のように、光がそこだけ吸い込まれているかのような感じだ。
表情が伺えない事で池田の恐怖が最高に高まった。
素早く木刀を手に取り、青年に叩きつける。
驚いたのは学生達だ。
背後で空気を切り裂く音がしたかと思えば、 轟音が鳴り響く。
皆、信じられない面持ちで木刀を手にした池田を見ていた。
兵藤も違う意味で恐怖を感じ、素直に謝る。
「すいません。もう止めますから」
小林も戦慄を感じて謝った。
「本当に申し訳ないです。僕が悪かったです」
―え、この人。…もしかして、元ヤンなの。怖い。
山本は普段の池田とはまた違った一面を見た事で不安になる。
紳士の仮面を被った悪魔のように感じていた。
―ふむ。今度の顧問は短気なのか。要注意だな。
亀井はそんな事を思った。
―この人達にはそれくらいやるのが、ちょうどいい。
普段の2人を知っている佐藤は度重なる下品な喧嘩に嫌気がさしていたので、池田の行動に一票を入れた。
古森はいきなりの事で頭が真っ白だ。
少しちびってしまったようだ。
パンツが濡れている。
…池田は木刀が青年に触れる瞬間、目を閉じていた。
目を開けると青年の姿はなかった。
代わりに学生達が驚いたかのようにこちらを見ている。
―やってしまいました。
池田は自分の信用が音を立てて崩れていく事を感じていた。
「…」
「…」
誰も何も言わずに、池田の様子を伺っている。
当の池田もどうして良いか分からず、途方にくれていた。
「すいません。ちょっと、木刀があったので懐かしくなって、素振りをしていたら床に当たってしまいました」
気まずい表情のまま、池田は取ってつけたかのような理由でごまかしてみる。
「…」
―学生達にこの理由は受け入れられず、却下されてしまうのでしょうか。
室内を覆い尽くす沈黙に池田は心苦しかった。
「…なんだ、そうだったのか」
小林が言うと、皆安心したようだ。
引きつった笑顔になる。
―なるほど、昔を思い出して素振りをしてみたものの、体がついていかずに床にぶつかってしまったという事か。良くある事だ。
亀井はすぐに自分のデータベースに修正をいれた。
場の空気が和むと古森が兵藤に言う。
「ちょっと、トイレ借りてもいいかな」
「ああ、別にいいよ」
兵藤は唐突に古森に話し掛けられて少し驚き、そう答えた。
古森がトイレのドアを開けると小林の残り香が漂っている。
軽く咳き込みながら、トイレに入る。
―ああ、臭いよ。何を食べるとこんなに臭くなるのかしら。
古森は涙目のまま、パンツの具合を確認した。
―良かった。ちょっとだけだわ。…私って大きな音だけは駄目なのよね。
そんな事を思いながら、トイレットペーパーに水分を吸わせる。
―それにしても臭いわ。もう、我慢出来ない。
パンツと局部の間にトイレットペーパーを挟むと、古森は最大限の速さでトイレを出た。