19うんこの攻防


サークルの活動が終わりに近づいた事を確信した池田はふと辺りを見回し、部屋の隅でじっとしていた青年を探す。

…いない。

―おかしいな。

池田は首をかしげる。

―確かに、さっきはいたのに。

池田に悪寒が走った。

―あの後ろ姿はもしかして…竹下君じゃないのか。

池田は頭によぎった考えを振り払う。

―私はどうかしている。竹下君のはずがないじゃないか。彼は亡くなったのだ。

「…先生…先生…」

自分の思考に没頭していた池田は山本の呼びかけで現実に戻る。

「どうしましたか」

「いえ、今日の活動はこれで終わりにしようと思います」

山本は自分の呼びかけにも、うわの空の池田を怪訝そうな目で見ている。

「そうですか。ご苦労さまでした」

「すいません。いつもと勝手が違うようでメンバーが緊張していたようです」

「いえいえ。無理を言っておしかけたのはこちらですから」

池田は少し考えるような仕草をした後で、言葉を続ける。

「ところで…この部屋にいるのは私を含めて6人でしたっけ」

―変な事を言う人だな。見れば分かるじゃないか。先生、山本、亀井、古森、オレ、佐藤、小林で…7人だ。あれ。小林はどこへ行った。

兵藤は左右に視線を動かした。

トイレを流す音がする。

皆が注目すると、小林が出てきた。

それを見て山本が言う。

「全部で7人ですね。彼は兵藤君の友人の小林君です」

「なるほど」

―確かに、この子は部屋に入った時にいたな。私が見たのはこの子だったのだろうか。

小林は全員の視線が自分に集まっている事に気まずい空気を感じていた。

ごまかすかのように口を開く。

「なんだよ。こっち見んなよ。うんこした後、人に見られたくないだろ」

「…お前、うんこするなよ」

兵藤が顔をしかめる。

「なにか。じゃあ、お前はうんこしないのか。アイドルにでもなったつもりか」

「そういう意味じゃなくて、人の家でうんこするなって事だ」

「それはうんこに言えよ。うんこが出たいというから仕方ないだろ」

「お前がうんこだ。うんこばやしめ」

兵藤と小林の幼稚で下品なやり取りにどう対応して良いか分からず、他の人は黙っていたのだが、山本は顧問の前でくだらない諍いを起こす2人におこっていた。

仲裁に入る。

「あなた達、最低よ。喧嘩するなら、2人の時にやってよ」

兵藤の気勢は削がれたが、相変わらず小林を睨んだままだ。

小林もうんこばやしという小さい頃のトラウマを言われて頭にきている。

「おれがうんこなら、お前もうんこだろ。その意味が分かるか」

「…なんだよ」

「口から入った兵糧は、あら不思議。尻から出ればうんこだよ。万物はうんこに通じる。人間は所詮、うんこ製造器でしかないんだぜ」

「お前な…」

延々と続く2人のやり取りを聞いて、密かに亀井は思っていた。

―出物腫れ物、所かまわずか。小林の意見は深いな。…それにしても、自分の糞の匂いは我慢出来るのだが、他人の糞の匂いは我慢出来ないのは何故だ。屁もそうだしな。やはり、生物間の縄張り争いに関係しているのだろうか。

亀井は新たな研究課題を発見する事に成功した。

池田はうんこの話題をスルーして、正面姿の小林とさっき見た青年の後ろ姿とを頭の中で重ね合わせていた。

―少し違うような気はするけれど…他に人はいない事だし…小林君なのかな。

池田は振り返って部屋の隅をみた。

視線を戻す途中で机の上の眼鏡に目が止まった。

―あの眼鏡は。

周囲の目はいまだに兵藤と小林に注がれている。

しばらく、続きそうだ。

池田はゆっくりと数歩下がると、机の上の眼鏡を手に取りかけてみた。

部屋の隅を見る。

やはり、いない。

安堵の息を吐き、眼鏡を外そうと顔を下に傾ける。

いた。

池田は息を呑み、言葉も出ない。

左側の壁に沿った場所、池田にとっては左足の斜め後ろに、先程と同じような格好で青年が背を向けて座っている。

違うのは池田との距離だ。

かかとからおよそ1m程度だろう。

手を少し伸ばせば届く間合いだ。

池田は自分と学生達の間に座り込んでいる青年の扱いに困った。

大使館に行きたいのにデモで入れない国民のようだ。

見つけた瞬間には頭が恐怖で真っ白になったものの、何も動きが無い事で平常心を取り戻しつつあった。

恐れながら青年と学生達の方へゆっくりと体を向ける。

池田は足元にいる青年に注意しながら、学生達に目で助けを求めた。

しかし、学生達は兵藤と小林に夢中である。

―竹下君なのか。それとも佐藤君が見たという自殺者の霊なのだろうか。

池田は竹下の風体を思い出そうとするが、思うようには行かない。

孤立無援の池田と青年との間で表面上は膠着状態が続いていたものの、水面下では激しい心理的攻防が繰り広げられていた。

池田はここで打開策を思いつく。

―眼鏡を外せばいいんじゃないか。

人は目に見えなければ、どんな事であれ、無関心でいられる。

実際は一度でも、見えてしまったものは無視する事は出来ないのだが、この時の池田はそんな事まで頭が回らなかった。

池田は思いつくとすぐに眼鏡を外した。

―どういう事だ。何故、消えない。

池田の思惑とは裏腹に青年はそのままの姿でそこにいる。

池田はパニックに陥りかけていた。

彼を正気にとどめているのは学生達がこの場にいるという事だけだった。


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