兵藤は夢を見ていた。
竹下の夢だ。
竹下はまるで映画のゾンビのように、手をだらりと前に突き出して、兵藤の方にゆっくりと歩いてくる。
その竹下の口がかすかに動いているような気がした。
耳を澄ます。
「あーうー。あーうー」
なんだか竹下がそう言っているように思えた。
…あーうーとは一体何を意味するのだろうか。
「携帯か。携帯が欲しいのか」
兵藤は携帯をポケットから取り出して前に出した。
「あーうー」
ゾンビは手を突き出して前に進んでくる。
携帯を渡そうか、一瞬迷ったのだが、やはりゾンビは怖い。
相手の足取りに合わせて下がろうとする。
だが、なぜか後ろに下がる事は出来ない。
兵藤はゆっくりと竹下ゾンビが近寄ってくるのをただ見ている事しか出来なかった。
そこで、目が覚めた。
兵藤は置時計を見る。
朝の4時だった。
部屋の中は冷気でひんやりとしているのに、汗だくだ。
それでもすぐに布団を被って、もう一度眠ろうとしたが、目が冴えてしまって眠れない。
仕方なく、ベッドから置きだした。
冷たい。
床が妙に冷たく感じる。
兵藤はつま先立ちのまま、洗面所へと向かった。
顔を洗う。
鏡で自分の顔を確認していると、後ろを何かが横切ったような気がした。
振り向いたがやっぱり何もいない。
また、ベッドに戻り、横になった。
ただ、天井を眺める。
―とても怖い夢を見たような気がする。だが、一体どんな夢だったのだろう。
兵藤は思い出そうと頑張るが、あるはずの道がないような感覚だった。
兵藤はいつの間にか眠っていた。
兵藤は山さんの部室前をうろうろしていた。
山本の様子を見るためだ。
しかし、山本に会った所で何を話せば良いのか分からないという事もあってか、なかなか部室に入る事が出来なかった。
そこに、亀井がやってくる。
「何か用か」
「おお、亀井」
兵藤は声をかけたのが亀井だった事で、緊張が少し解けた。
「いやあ、あれから皆どうしているかなって。ちょっと、気になってさ」
「そうか。まあ、入れよ」
亀井が鍵を取り出し、ドアを開ける。
兵藤が覗くと、中には誰もいなかった。
残念のような安心したような、良く分からない気持ちになる。
中に入ると、兵藤はいつもの席に座った。
亀井はポットに水を入れると言って、部室を出て行った。
なんだか、落ち着かない。つい、部室の中を見回す。
しばらくすると、ドアの開く音がした。
兵藤は亀井と思って入り口の方を見ると、古森だった。
―そういえば、古森もいたのだったな。どうやって、話し掛けようか。こいつは竹下の件をどう思っているのだろう。
兵藤は沈黙のまま、古森の出方を見ていた。
古森は兵藤を見ても、何も言わなかった。
視線を外して兵藤の後ろを通り、手荷物を棚に置いている。
そして、何かを確認するような動作をした後、席に座った。
机の上にある雑誌の1つを手に取り、読んでいる。
―おい、何か言えよ 。
心の中で兵藤は叫んだ。
話し掛けるきっかけを掴む事が出来ず、部室には雑誌のページを開く音だけが、規則的に聞こえている。
兵藤は前の時とは反対に、沈黙に負けて、先に古森に話し掛けた。
「よお。また会ったな。小僧」
「古森です」
古森は雑誌から目をあげ、冷ややかな視線を兵藤に送る。
―こいつは…山本と違って大丈夫そうだな。
佐藤の時は怒りが湧いたのに、古森の時は怒りが湧く事はなかった。異性はお得である。
兵藤は山本の事を聞いてみる事にした。
「なあ。山本は来ないのか」
「顧問の所に寄ってから来るって聞きましたが」
「え、こ、顧問の所か」
兵藤はぼけようとしたが、校門や黄門様、肛門 コモン言語くらいしか思いつかず、面白くないので止めた。
「新しい顧問との顔合わせだそうですよ。まあ、私達には関係ないですね」
「そうか」
古森はまた雑誌に目をおろす。
そこで、話が終わってしまった。
「…」
―静かだ。まるで、誰もいないみたいだ。
兵藤は少しさびしくなった。
「ところで…」
兵藤が次の話題をふろうとした時、またドアが開いた。
山本かと思ったら亀井だった。
亀井は古森を見て、声をかけた。
「古森来ていたのか」
「ええ」
2人の会話はそれで終わった。
―俺だけじゃない。古森って誰にでもこういう態度を取るのか。
兵藤は亀井に対して、ざまあみろ的な気分に浸っていた。
「それにしても、山本遅いな」
兵藤が言うと、亀井が答えた。
「なんだ。山本狙いか」
「いや。そういうわけでもなくなくなくない」
つまり、兵藤は肯定したという事だ。
「なるほど」
亀井は頷く。
「確かに、山本はいい線をいっている。調教すればかなりのモノになると思うぞ」
―調教って。こいつ、そういえば古森を実験動物とかいうし、ギャグか本気かが分かりにくい奴だ。
「…」
兵藤は答えに困る。
亀井はニヤニヤしている。
「新しい顧問は結構若い奴らしいからな。もしかしたら、口説かれているかもしれないぞ」
兵藤の頭の中に、「密室で二人だけのシーン」が鮮明に描かれる。
―いけない。それはいけないぞ。教育に携わる者は聖職者といっても良い。断じて、生殖者であってはならない。
自分の事は棚にあげ、兵藤は立ち上がると、勢い良く部室を出た。