10それぞれの夜


兵藤は寝転んだまま、机に目をやった。

角に合わせるように平行の状態で、眼鏡が置いてある。

―几帳面な奴だ。

佐藤がメガネと叫んだ時の顔を思い出す。

―あいつ、必死だったな。

兵藤は先刻、山本を思い出した時と同じように、軽く吹いた。

―それにしても、本当はメガネが関係しているのだろうか。佐藤が嘘をついていたとしても、メガネが原因だなんて子供騙しだ。恥ずかしくて普通は言えない。

兵藤はおっさんのように一声あげて、体を起こして立ち上がり、机の上からメガネを取った。

メガネを何回かひっくり返して観察した後、かけてみる。

そのまま、部屋を見渡すが、いつもと何も変わらない。

溜め息をついて、メガネを外した。

―俺はバカか。そんな事あるわけがない。メガネをかけたら、幽霊が見えるなんて。そんなメガネがあったら売れるだろうな。

兵藤の思考が横道にずれた。

そこに、いつものように天井裏から軋む音が聞こえる。

兵藤は部屋が寒くなったような気がした。

腕を見ると、鳥肌が立っている。

古森の言葉を思い出した。

「おい。頼むから、俺の部屋を通らないでくれよ」

兵藤はつい、声をあげていた。

当然の事だが、返事は無い。

だが、声をかけた事で、本当に何かいるような気になってきた。

冷蔵庫の裏や灯りの点いていない洗面所の方など、影になっている部分から誰かが覗いているような気がする。

―待てよ。今、メガネをかければ見えるんじゃないか。

今、いないからといって、いないという訳じゃない。 山本の言葉を思い出す。

思えば、メガネをかけていたのは、霊がいない時ばかりではないのだろうか。

でも、古森はただのメガネと言っていた。

―かけて見れば分かる事だろ。かければいいじゃないか。

自問自答する。

もし見えてしまったらどうなのだろうか。

果たして、自分は正気でいられるのだろうか。

世の中には知らない方が良い事もある。 兵藤は悩んだ挙句、メガネをかけた。

否、かけようとした。

…そこに音が鳴り響く。

携帯の着信音だ。

兵藤はメガネを机の上に戻し、携帯を手にとった。

小林からの電話だ。

「おっす。おら、孤独。今日の事、田中に聞いたぞ。なんで俺を誘わない」

「ああ、悪い。忘れていた」 兵藤は辺りを注意深く警戒しながら答える。

「俺がいれば、山本をうまく誘ってやったのに。バカだな、お前」

―また、いい加減な事を。

それでも、兵藤は小林のいつもと変わらない様子に安心した。

「…今度はちゃんと誘うよ」

「それで…。霊がいたんだってな」

―こいつ。今、一番触れられたくないのに。

「ああ、通りすがりの優しい霊だってさ」

兵藤は小林に向けてというよりは、虚空の誰かに語りかけるように優しいという部分を無意識に強調していた。

「そうか。ちなみに、性別は」

「俺が知るかよ。今、忙しいからまたな」

そう言って、兵藤は携帯を切った。

電話する前と比べると、少し気が楽になったようだ。

いつもの部屋に戻ってきた。

鳥肌も消えている。

兵藤はベッドに横になった。

―今日はもう寝よう。なんだか、疲れた。

蒲団を頭からかぶると、兵藤は目を閉じて眠った。

 

男は思っていた。

―こんなはずじゃなかった。

目の前にはつい数分前まで生きていたはずの竹下の体がある。

竹下を見下ろしている男の名は、池田という。

駅で竹下を助けたその人である。

彼は実のところ、古森とは全く面識がない。

竹下に声をかけたのは遊び半分である。

牛丼屋で若い男達が埋蔵金の話をしているのを聞いて、興味を覚えた。

始まりはそれだけの事だ。

池田と彼らにそれ以上の接点があるわけがなかった。

出会うはずのない2人はおばさんの勘違いによって出会ってしまった。

池田は竹下を助けた時に、即興でつじつまを合わせた。

池田に興味があったのは霊がどうのこうのという話ではない。

あくまで、埋蔵金の事だけだった。

埋蔵金を探すという事はそれなりの根拠がある。

その地図なり、古文書なりを見てみたかった。

しかし、普通に話し掛けたのでは怪しまれるに違いない。

だから、騙ったのだった。

それが、こんな事態になるとは予想だにしていなかった。

居酒屋で話を聞くと、竹下は池田が講師を勤める大学の学生だった。

もしかしたら、大学で顔を合わせる事があるかもしれない。

そうなれば、自分の信用が地に堕ちる事になる。

池田は思った。

正直に告白しよう。

だが、うまくはいかない。

竹下の自分を尊敬するような眼差しに気後れしていた。

自分の講義をここまで真剣に聞いてくれる学生が一体何人いることだろう。

竹下の信頼を裏切るようで悪かった。

なかなか本当の事を言い出せないまま、居酒屋を梯子していたのだった。

まだ、年若く、酒を飲み始めたばかりの竹下には自分の許容限界が分かっていなかった。

勧められるままに、酒を飲んでいた。

その内に、池田もまた酔っ払い、このまま酔わせればもしかしたら今日の記憶が無くなるかもしれない。

正常ではない頭でそう思った。

この頃になると、竹下は泥酔期に入っていた。

これくらいでいいだろう。

池田は少しふらつきながら、意識もはっきりせず、話している言葉もめちゃくちゃな状態の竹下になんとか肩を貸し、裏通りを歩いていた。

突然、それは起きた。

竹下の脳の呼吸機能がマヒし、心停止が起こったのだ。

竹下は道端に倒れこみ、池田はそれを見下ろしていた。

池田は急速に酔いが覚めるのを感じていた。

―一体どうすれば良いのだろう。

警察に人間扱いされない様子が池田の目に浮かぶ。 辺りには幸い、人影はない。

―逃げよう。それしかない。

少し躊躇しながらも、池田はその場を立ち去ってしまった。


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